ミュージアムに見る歴史的なハーディングフェーレシリーズ 3 Old Hardanger Fiddles at the Museums vol.3

今日は久しぶりに、少し伝統音楽らしい内容のことを書きたいと思います。

シリーズ2ではテレマルクの楽器にフォーカスして写真をまとめてみました。シリーズ3では、ヴォスVossの博物館に所蔵されている楽器をみていきたいと思います。

楽器の変遷を見て行くのはとても興味深く楽しいのですが、実際に演奏する立場としては、往年のプレーヤーがどんな楽器を使っていたのか、というのも気になるところです。ヴォスの博物館にはハルダンゲルやヴォスの古い楽器と共に、歴史的な演奏家、オーラ・モサフィンOla Mosafinn(1828-1912)、シュール・ヘルゲランSjur Helgeland (1858-1924) の所有していた楽器が収蔵展示されています。

 

 

上の2本はモサフィンが所有していたものだそうです。左はヴォスの芸術家マグヌス・ダーゲスタ Magnus Dagestadの1900年作、右はグンナル・へランド Gunnar Hellandの1889年作のものです。別のケースにはハルダンゲルで作られたもう少し古い18世紀の楽器もモサフィン所有として展示されていました。19世紀と20世紀にまたがる時代を生きた演奏家、ちょうど楽器もモダンへの移行期だという特徴を見せています。

Helgeland

これは、シュール・ヘルゲランが所有していた楽器の一つです。注目はこの楽器の横に展示されている弓です。現在では、ハーディングフェーレを弾く際にモダンバイオリン弓を用いることが一般的ですが、1850年前後まではこの写真にあるような「弓型」の弓を使うことが一般的だったようです。楽器のモダン化、演奏形態のモダン化が進むにつれて、弓もモダンに次第に変わっていきました。当然、演奏スタイルもまた変わっていったということが言われています。ヘルゲランの場合も、後年のよく見られる写真ではモダンバイオリンの弓を使用しています。こういった古いタイプの弓は近年ブームが再来し、使用するプレーヤーが急増しました。

現在でも楽器の構え方に関しては様々なことが言われていますし、様々な構え方をする人がいます。私個人的には構え方に関しては多くの場合、個人スタイルであることが多いとは思います。とはいうものの、習慣的に、ハーディングフェーレは、鎖骨よりも低い位置で楽器を構える人が多く、現在でもそのような構え方をする人が少なからずいます。また、時代考証といっても古い時代のものを扱う場合、確証を得るのが難しかったりするのでそこにまた大きなハードルがあるというのも事実です。

楽器の構えに関することだけに関わらず、演奏解釈に関しても、歴史的事実のどこを解釈して伝統であると位置付けるかということが重要になってきます。歴史的事実を知ることは本当に興味が尽きません。演奏する場合にはそこから一歩踏み出して取捨選択したり創造したりすることが常に必要です。楽ではありません。

skrinen

昔の楽器ケース。

現代音楽のフェスBorealis

ちょうどアクティブラーニングのセミナーの直後に、現代音楽フェスティバルがあり、小学校の生徒たちと地元の現代音楽グループBIT20との共同作品というのがあったので行って見ました。数日間に渡るワークショップで子供達が作り上げた20分にも渡る作品を披露するというものでしたが、即興的に作られた断片を組み合わせて一つの作品に仕上げるという手法でした。面白かったのは子供達が弾いていた「楽器」。もちろん、ドラムとかキーボード、ベース。バイオリンといった西洋音楽の楽器もたくさん登場するのですが、iPadとか、ワイングラスとかいうものも登場して始まる前から期待が高まります。作品は、全てが即興であったという訳ではなく、始まりは、ノルウェーでよく知られているフォークソング「Bringebærslåtten」(注:bringebærはラズベリーのこと)に始まり、それにオーバーラップするようにベースでの即興が入り発展して行った感じです。

10人以上の子供たちに対して、教師役(あるいはアーティスト役)の大人(BIT20のメンバー)は2人。先生らしい生徒たちとの会話があったり、そうかと思えば、子供たちと遊んでいるかのような場面があったりと、チームワークを作り上げる術にも長けていました。このBIT20は定期的に地域の小学校に出向いてワークショップを行なっているようです。

 

 

この作品を皮切りに、私の中で、現代音楽フィーバーが起こり、別のコンサートも立て続けに3本見ることにしました。この3本は「Ny kammermusikk 新しい室内楽」と称されたプログラムシリーズだったのですが、中でも印象的だったのはその2本目のカルテット(4重奏)です。カルテットと名乗ってはいるものの、それぞれの奏者は別々の部屋に入り、お互いの姿を直接見ることも聞くこともできない設定になっていますが、マイクを通して、別の奏者が何を弾いているかは聞くことができる状態です。決まっているのはタイミングだけ。どこの部屋の誰が何分ぐらい即興したら、次はどの部屋の誰が弾く、というような順番は指定されてはいるものの、他は何も決まっていないカルテットです。ちなみに、このカルテットはエレキギター、プリペアードピアノ、バスクラリネット、ハーディングフェーレ+ハープシコードで構成されています。

この作品で面白かったのはまずそのコンセプトです。オーディエンスの方もそれぞれの部屋を行ったり来たりしながら作品を楽しむことができるのですが、もちろん、マイクで繋がっているとはいえ、一つの部屋から別の部屋へ移動すると音風景は一変します。それぞれの奏者も、通り一遍のことを演奏はしないので、時に、音楽というよりも「音」とか「物音」と行った風情になります。その状況で一つの部屋から別の部屋へと移動して体験する音世界というのは、まるで実生活で体験する世界観とそっくりなのです。私たちは比較的狭い社会に実存しているものの、SNSやインターネット、テレビ、ラジオを通じて直接体験していない世界中の状況を見たり聞いたりしながら生活しています。時には一つの場所から別の場所へ移動して、別の世界を体験することもあります。そして、移動した先では、同じ音現象がまるで違って聞こえる。さっきまで近くで聞いていた音を単に遠くに聞くこともあるし、場所が変わることによってその音の表情が変わって聞こえることもある。実生活でもそういう体験はありませんか?同じ一つの現象やニュースが場所によって温度差を持って語られたり、感じられたり。1時間にもわたる即興演奏を通じて、頭の中でも目の前の音世界と自分の生きている世界とのシンクロが起こった、面白い体験でした。

http://www.borealisfestival.no/2018/shows/new-chamber-music-stephan-meidells-metrics/

現代音楽というと、難しい印象がありましたが、大人になればなるほど、この世界観は身近になるような気がします。

下は、今ベルゲン美術館で展覧会を行っている現代芸術家Chiharu Shiota氏の展覧会と、このところ寒くてすっかり凍りついた噴水広場の様子。

Active Learning アクティブラーニング

今年はどういうわけか、ヨーロッパ全域的に寒いようで、いつもは全く冬の趣のないベルゲンでも雪が度々降り、今日も降っています。

先日、音楽学校の指導者向けセミナーで、アクティブラーニングというものを知りました。生徒たちの自主的な参加を促すことを目的としているこのメソッドは、日本でも数年前から実際に小学校や中学校の授業で用いられているところもあるそうです。セミナーではそのコンセプトを説明したりディスカッションしたりするというものでした。具体例が紹介されなかったのが残念でしたが、面白いコンセプトと思ったので、覚書としてここにも書いておきます。

話の中で、とにかく生徒が自主的に参加することが重要であるということが強調されました。紹介された一つの評価スケールでは、下位段階では模倣をしたり、装飾をしたりするという行動が挙げられているのに対して、上位評価になると、教師が自立を促したり、最終的には生徒が自主的、また全面的に何かを作り上げるという行動が挙げられています。また、こういったプロジェクトでは教師から生徒への一方向の「教え」ではなく、相互に関わりあって発展していくという理想が掲げられています。教師は、モチベーションを与えたり、インスピレーションを与えたりする役割を持ちながら、必ずしも、決まったゴールに押し込むのではなく、生徒が行きたい方向を察知して行動を促す、というような印象を持ちました。

ノルウェーに来てから、教師と生徒のあり方が、日本とは随分違うなぁというのは最初の頃から感じていましたが、そういう文化が生み出した理論なのかなという気がします。文化全般についても日本は「啓蒙」的な色彩が強いと感じていましたが、ノルウェーでは、あまりそうではなく、上からくるものも下から来るものもあるような、どちらの権力も強いような印象があります。何を書いているのかよくわからなくなったので、今日はこの辺で。次回に続きます。

 

 

 

フィドル弾きまくり

昨日の3月3日、ベルゲンフォークでは恒例のダンスフェストがあり、久し振りにダンスに弾きまくる楽しい夕方でした。

メインはアメリカから来たこちらのバンド、ケージャン、カントリーのグループで、ツアーの一部として昼間はダンスのワークショップ、夕方からコンサートと夜中までダンスという内容でした。

3.mars.2018

その前座として、私の参加しているベルゲンの若手ハーディングフェーレグループ、アウドヒルズが弾き、その後のダンスフェストではケージャンバンドと交代で夜中までダンスの伴奏。写真はコンサートの時の様子です。(注:ケージャンバンドの方です)

コンサートの部も楽しかったのですが、私としてはその後のダンスで弾きまくるのが楽しみは大きく。阿波踊りでは「踊る阿呆に見る阿呆」と言いますが、この場合、「踊る阿呆と弾く阿呆」です。踊りまくる人達、弾きまくる人達。その後スッキリ爽快!グループの若き女子たちの多くは、子供の頃からこういうイベントで弾きまくり踊りまくって成長しているので、あれっと気がついたら、途中からダンスに繰り出している女子たち。そして次の瞬間気がついたら背後でケージャンバンドのおじさんが参加している、という終盤はジャムセッション風になり12:00で終了しました。街中らしく、夜中になると終電、終バスの時間を気にして急いで退散。ダンスパーティでアルコールもなく、グダグダもなしです。

こういうイベントでアルコールがないのは意外かもしれませんが、ノルウェーはアルコール規制がきつく、普段からアルコール類を販売していない会場ではわざわざ警察署から許可証を取らなければならず、そういう煩わしさも手伝って、ノンアルのイベントというのが割と多いです。

私はダンスはもともとあまりしないのですが、こういうときは無性に踊りたくなります。昨日はダンスしなかったので、満足度はまあまあです。スッキリ、楽しかった!!

アウドヒルズの写真がないって?弾く阿呆状態の時に写真なんか撮る暇ありますか?

 

 

嬉しいニュース!

2月は悲しい出来事の後、風邪をひいたり、なんだか重苦しい気分のまま終盤を迎えた先日の日曜日、嬉しいニュースがあり、一気にテンションが上がりました。

今週の日曜、2月25日、ノルウェーでは昨年一年間 (2017年)に発表された音楽作品(CD)の中からそれぞれの分野でのベストアルバムを選ぶ、スペルマン賞が発表されました。その中で、私が個人的に大変お世話になったり、音楽をする上でとても影響を受けている方が2組も受賞したのです。

まず、フォーク、伝統音楽の分野では、アンネ・ヒッタ Anne HyttaのストリームールStrimurという作品が選ばれました。Strimurというのは、テレマルクの言葉で「日差し」とか「明かり」を意味します。その通り、テレマルクの伝統曲を収録したハーディングフェーレのソロアルバムです。彼女は間違いなく、私がこれまでに一番影響を受けたプレーヤーの一人です。これまでのレッスンの中で教わった曲も、それから数年たった今、彼女らしい解釈でさらに発展を遂げているもの、また、有名曲で今まで何度も聞いた事がある曲でも彼女の解釈を通して、瑞々しく昇華されているもの、それらがまた、彼女らしい順番でアルバムとして整理され、提示されている様子。伝統曲を扱いながらもどこにもかしこにもAnne Hyttaスタイルが満載で、独善的ではなくすっきりとその理由づけが見える素晴らしい作品です。

Anne Hytta Strimur

この作品は、昨年、フォークミュージックフェスティバルであるFolkelarmでもベストソロアルバムとして受賞したものです。ある意味特殊で狭い分野の中だけでなく、スペルマン賞のような一般に開かれた場でも大きく評価されました。

そして、オープンクラスでは、ニルス・エクランド バンド Nils Økland BandのリスニングLysningというアルバムが選ばれました。

Nils Økland Lysning

Nils Øklandといえば、ハーディングフェーレを用いながらも常に新しい表現を探り、実験的であったり即興的な作品を発表し続けるプレーヤーです。ともすると、画一的な理想を追求してしまいがちな伝統音楽という分野にありながら、自由な発想を提示し続ける姿が魅力です。「音色の探求」というのがこの方の音楽の一つのキーワードになると言われています。決して、単に綺麗なだけではなく、時にはタブーとされるような音も臆する事なく出していく、という姿勢。とはいえ、いつ聴いてもその音楽は美しく、甘ったるくはないけどロマンチックで、何かいつも救いがあるような、そういう世界観があります。音楽に限らず日々の生活の中で、「いかに無駄のない〇〇をしようか」とか「完璧でない〇〇はいやだ」とか、何かしら自分で設定しているルールに知らず知らず縛られているという状況。「実験音楽ではその場に起こっていることはそれが全てそれで良いと考える。例えば、ハーモニーが最悪だったとか、音色が汚かったとか、曲の終わりがうまくいかなかったとか。でも、それはそれでOK」というような事を、かつて即興を少し始めようとした時に、Nilsと長年演奏しているSigbjørn Apelandが話していたのを、ことあるごとによく思い出します。

ちょうど、スペルマン賞発表の前日、ベルゲンでこのバンドのコンサートがありました。Nilsのコンサートを聴くのは2年ぶり。美しいところあり、ハードなところあり、バンドのチームワーク抜群のとても良いコンサートで、この日も何処と無くいつもの幸福感がありました。

というわけで、これらの受賞が心から嬉しく、停滞気味な生活に少し活気が戻ってきた今日この頃です。

因みに、スペルマンspelemann/ spillemann/ spellemannとは演奏家とかいう意味ですが、伝統音楽の分野では、ダンスの伴奏に弾いたりする場面で、特に、ハーディングフェーレやフェーレの演奏家に対して日常的に使われる言葉です。現代的には「音楽家」という意味のmusikerも使われますが、伝統音楽ではスペルマンの方が圧倒的によく使われる表現です。